安房直子さんの世界を語り継ぐ 花豆の会

花豆通信 第3号 2001年5月15日発行
 
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           目  次

 □花豆ライブラリーB
  ◆エッセイ「山室先生と私」
 □第三回「花豆の会の集い」について
  ◆
心にひびいた安房さんの世界(会の報告)
  ◆
安房直子童話の深層(小西正保)
 □その他
  ◆
安房さん、心に寄り添うともだち
  ◆
いいメール
  ◆花豆文庫においでください
  ◆花豆文庫の蔵書
  ◆花豆の会の活動
  ◆2000年度会計報告
  ◆花まめ・粒々〜あとがき





仙台市立片平丁小学校四年生
最前列右から二人目が安房さん

 花豆ライブラリーB エッセイ 
 山室静先生と私            

安房 直子   .

・・・合評会の席で先生が、「こんな作品が、十ぐらい書けたら、一冊の童話集にするといいね」とおっしゃいました。このとき私は、胸に、ぽっと灯がともったような気がしました。いつか私も、自分の本を出せるかもしれないと思ったのです。
 それにしても、こんなにすばらしいほめ言葉があるでしょうか。今でも私は、先生のこのひと言を思い出して、胸があつくなるのです。

 (本文より)

「山室静先生と私」は、『山室静自選著作集』第5巻月報(郷土出版社、1993年5月刊)に掲載されたものです。


心にひびいた安房さんの世界  根岸一博
 第三回「花豆の会」が、去る三月一〇日(土)、遊葉館において開催されました。参加者は二五名でした。
「今日は会場が、安房さんの笑顔と、笑い声に、包まれているような気がいたします」という、生沢あゆむさん(世話人〉の開会の辞で、スタートしました。
 つづいて、峰岸明さん(安房さんの夫君)から、「花豆の会が順調に育っていて、うれしく思います。これからも安房直子をお忘れなく、どうぞよろしく」と、ごあいさつがありました。
 そして今回のメーンとなります「安房直子童話の深層」というテーマで、小西正保さんが、お話されました。興味深いお話に皆が引き込まれ、四十分という時間がまたたく間に過ぎてしまいました。お話のあとはティータイムとなり、安房さんのお好きだった紅茶とケーキで、リラックスの時をもちました。
 そののち、安房さんの初期作品『北風のわすれたハンカチ』をみんなで輪読しました。各章ごとに配役を決めて、即興で読んでいきましたが、みなさんとても息が合っていました。くま、北風の親子たち、ナレーターと、なかなかの感情移入やしっとりした語りなど、感動的な出来栄えになりました。
 会場には、牧村慶子さんが描かれた『北風のわすれたハンカチ』の表紙絵の拡大カラーの大きな絵が飾られていましたが、北風の少女の印象的な雰囲気が、場にぴったりの感じでした。
 輪読を終えて、小西さんを交えての質疑応答、参加者のフリートーキングでは、つぎのような、意見が交換されました。
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★小西さんのお話を伺って、安房さんが多くの作品にたびたび書かれている「孤独」の質が、分りゃすくなった。それは、漱石や南吉だけでなく、私たちの誰にもある、心の奥の無意識を越えた、集合無意識から生まれる元型的なイメージによるものなのではないか、ということ。だから多くの人が自分の「孤独」の感覚に引き寄せて共感できるのではないか。

★小西さんは、安房さんが多感な15歳の頃に出生の事実を知ったのではないかとのべられたが、それはどのような経緯で考えられたことなのか。ー小西さん1特に具体的なことを踏まえて考えたのではない。年譜と作品からの推測です。

★「花豆の会」のホームページを、開きたい。花豆通信もインターネット上で、読めるようにしたい。

★安房さんが晩年にお住いの西東京市に、花豆文庫の設置を依頼してはどうか。

★栃木(栃木から出席した読者の方の提案)の酒蔵で「ハンカチの上の花畑」の朗読会をしたらどうだろうか。地元の小学校にも働きかけ、子どもたちをゲストにして、花豆の会ができないだろうか。

★何よりも全集の刊行が、待たれる。 ☆講談社では、復刻版の出版を予定しています。

★初めて参加したが、安房さんに会えたような気がして、とても楽しかった。また来年も参加したい。

 
安房直子童話の深層  小西正保
安房直子は、昭和一八年(一九四三) 一月に生まれている。昭和一八年といえば、童話作家新美南吉が、三〇歳で没した年である。
 安房直子は、一〇代の終わり頃から童話を書きはじめ、二七歳の時に、「さんしょっ子」一篇によって日本児童文学者協会新人賞を受賞、以後、童話作家としてその生涯にほぼ二六〇篇の童話を書き、平成五年(一九九三)二月、五〇歳にして卒した。
 逝って八年。彼女の書き遺した作品のいくつかは、戦後日本の児童文学世界に、ひときわ特異な足跡をいまなおとどめつづけている。「全集」こそまだ出ていないが、その幻想的でかつ不思議な世界は、多くの読者の心の中にしみこんでいる。
 天折した宮澤賢治や新美南吉の童話が、あるいは芥川龍之介、有島武郎の書いた童話のいくつかが、今日なお読まれつづけているように、安房直子作品のいくつかは、これからも世代を越えて読者の胸を揺さぶるに違いない。

1.安房直子は何を書こうとしたか
 ー童話創作の動機と方法


安房直子が、おそるおそる、しかし本腰を入れて童話を書きはじめたのは、一九歳、日本女子大学に在学中のことであったようだ。
 没後、雑誌「日本児童文学」(一九九三・一〇月号)に掲載された「安房直子略年譜」によれば、一九六二年の項に、
《日本女子大学で童話雑誌「目白児童文学」が創刊され、大学の掲示板に原稿募集のはり紙が出た。二〇枚ほどの作品を児童文学研究室に持っていき、はじめて山室静氏に出会う》とある、持参した作品「月夜のオルガン」が「目白児童文学」の創刊号に掲載された。
 その翌々年の一九六五年(昭和四〇年)、「目白児童文学」の三号に「空色のゆりいす」を発表、師の山室静に「こんなのが十篇くらいたまったら、一冊の本にするといいね」と励まされ、児童文学の道に進む決心が固まる、と書かれている。
 さらに一九九六年(昭和四一年)、日本女子大卒業後、山室静を中心にして仲間と同人誌「海賊」を創刊、その創刊号 (同年一〇月〉に「あじさい」(後に「青い花」と改題〉を発表した。以後、終生「目白児童文学」と「海賊」は彼女の大切な作品発表の場となった。
 一九七〇年(昭和四五年)、二七歳、その前年の「海賊」一四号に発表した「さんしょっ子」によって、彼女は日本児童文学者協会新人賞を受賞する。以後、童話作家として自立し、前記二誌の他にも、もとめに応じて次々と童話を書きはじめる。あたかも蚕が孜々として糸を紡ぐように。日本女子大学成瀬記念館発行の「安房直子.メルヘンの世界」展(一九九九年一〇月)の著作目録によれば、たとえば一九七二年には一五篇を、その翌年には一九篇の作品を書いている。驚くほどの創作意欲であり、創作力だ。
 後年になって、彼女はいくつかのエッセイの中で自身の童話創作の動機、方法などを語るようになる。
 たとえば「誰のために」という、同人誌「木の花」創刊号(一九八○年三月) にのせた文章。

《「どうして童話を書くのですか。誰のために童話を書くのですか」という質問を受けたとき、以前は、困ったものでした。そんな事は、ほとんど考えてもみなかったのです。》

《そのうちに、このことを、ひとりでゆっくり考える機会があって、その結果、「私は、童話が大好きだから、誰のためでもなく、自分のために書いているのです」と答えるようになりました。》

《ところが、この信念に、このごろふと、疑いをもつようになったのです。読者を全く意識せず書いてきたつもりが、しらずしらず「読み手の目」を、ちゃんと考えていた自分に気づいたからです。》

 もう一つ、別のエッセイから引いておく。「童話と私」(日本女子大学「国語国文学会だより」No.3・一九九〇年五月) から。

《私が、童話を志した動機を、ひとことで言うとしたら、私自身が、子供の好きなものが大好きだからということになるでじょうか。つまり子供が夢みたり、憧れたり信じたりするものーー小人とか、妖精とか、魔女……等々、この世の中には、決してあるはずのない、それでいて、ひょっと、どこかにかくれているかもしれない、そういうものたちに、子供の頃から憧れて、おとなになっても憧れ続けてそれで結局、そういう物語を書くようになったのです。》

《これ(筆者注=「空色のゆりいす」のこと) を書きましたのが、大学三年の時で、その頃から私は、色彩に興味があって、色というものを、言葉の力だけで、ありありと伝えてみたいと思っていました。》

 「誰のために」は三七歳のとき、「童話と私」は四八歳のときの文章だ。
 私は、安房直子の書いた童話のすべてに目を通しているわけではない。が、たしかに、彼女の書いた多くの童話は、彼女自身が語っている動機、あるいは方法によって書かれているだろう。
 だが、ほんとうにそれだけだったのだろうか。彼女は、一面の真実をしか語っていないのではないか。とくに彼女が二〇代の初めから三〇代の初めにかけて書いたいくつかの作品は、それだけではない、何かに支えられているように私には思えてならなかった。
 二二歳にして発表した「空色のゆりいす」は、はたして、「色というものを、言葉の力だけで、ありありと伝えてみたい」という思いだけで書かれているのだろうか。彼女はなぜ、ほとんど処女作にも近い作品の中に、生まれながらに目の見えない女の子を造詣したのか。
 あるいは、なぜ、「北風のわすれたハンカチ」(原題「熊と北風と青い花」. 「海賊」三号・一九六七年六月)の主人公の月の輪ぐまは、最初に現われる北風に「何だって、そんなにさびしいのさ」ときかれて、「たったひとりなんだもの、ぼく」と、しょんぼりとこたえるのか。

《「みんな死んじゃったの。いつだったか、やっばりこんな風の日に、人問というやつが来てね、
 父さんがドーンとやられて
 母さんもドーンとやられて
 妹も弟もみんなおんなじで
 ぼくだけ残ったんだよ。》

と書いたのか。なんという、孤独感。読むものに側々として、何ともやりきれないような思いが伝わってくる。彼女は二四歳にしてこの作品を書いた。
 二六歳。安房直子が童話作家として世に認められた「さんしょっ子」では、貧しいお百姓の娘、すずなと、その幼な友だちである茶店の息子の三太郎が、サンショウの木の下で、一日、ままごとにあけくれるのどかな情景から物語がはじまっている。サンショウの木の精であるさんしょっ子は、ときどきいたずらをしかけながら、やさしく二人を見守っている。
 歳月が流れて、すずなはとなり村の大金持のところへ貰われていく。成長した三太郎は茶店のあるじに。やがて、さんしょっ子は風になって遠くに行ってしまう。サンショウの木は立ち枯れてゆく。
 この物語の中にも、「別れ」の哀感が漂う。
 つづく「きつねの窓」(「目白児童文学」九号・一九七一年三月〉では、山で道に迷った「ぼく」が出会った「そめもの、ききょう屋」の子どもの店員、実は子ぎつねの、染めた指でつくったひしがたの窓をのぞくと、その中にみごとな母ぎつねの姿が現われる。

《「これ、ぼくのかあさんです。」
 「……。」
 「ずうっとまえに、だーんとやられたんです。」
 「だーんと?鉄砲で?」
 「そう。鉄砲で。」(略)
 「それでもぼく、もう一度かあさんにあいたいと思ったんです。死んだかあさんのすがたを、一回でも見たいと思ったんです。」》

という子ぎつねのことばに、さっそく、「ぼく」も指を染めてもらう。
 そこに浮かび上がったのは、「むかし、大すきだった、そして、いまはもう、けっしてあうことのできない少女」の姿だった。次に現われるのは、遠い日のわが家の縁先。母親の声がきこえてきそうな、なつかしい「ぼく」の家。家の中からは、小さかった「ぼく」と、死んでしまった妹の笑い声がきこえてくる。その家は、「ぼく」の子どものころ、焼けてしまって、いまはない。
 全篇に溢れるこのせつなさは、何なのであろうか。

 同じ年に発表した「鳥」(「海賊」一二号・一九七一年八月)には、腕のいいお医者さんのいる町の診療所に、突然とびこんできた、海からきた少女が、「あたしはね、けっしてきいてはいけないひみつを、たったいまきいてしまったんです。だからそれを、大いそぎでとりだしてほしいんです。」と痛切に訴える。
 あげていけばきりもないが、このあと彼女は「野ばらの帽子」、「雪窓」、「鶴の家」、「野の音」、「白いおうむの森」、「ライラック通りの帽子屋」、「熊の火」、「火影の夢」、「青い糸」と書きついでいく。
 いずれもふしぎな幻想世界の中に、さまざまに形を変えながら、死んでいったもの、別れていったものへの悲しみが、そして、残されたものの孤独が、伝わってくる。
 物語の主調音のかげに秘められた哀切な旋律は何であったのか。

2.安房直子と漱石、南吉

 一九九三年二月に、安房直子は五〇歳という短い生を終えた。その半年余の後、彼女も所属していた日本児童文学者協会の機関紙「日本児童文学」一〇月号は、「安房直子の世界」という特集を組んだ。
 そこに掲載されるはずの「安房直子略年譜」を、伝手あって私は発行前に目を通すことがあった。
 その冒頭には、

 一九四三年[昭和一八年]当歳

 一月五日、父・藤沢貴久郎(旧内務省官吏)、母・英子の四女として、東京都新宿区に生まれる。当時、同じ市ケ谷の屋敷内に住んでいた母の妹、安房久子も、以来、育児を手伝う。

 一九四四年[昭和一九年]一歳

 養父・安房喜代年(専売公社勤務)、義母.久子の養女となる。香川県高松市に転居。

 と書かれていた。私は、ひそかに、ああ、そうだったのかと思い当った。
 昭和一八年当時、まだ日本には厳として「家」というものが存在した。家系を絶やさぬために、養子を貰うということは、決して不自然なことではなかったはずだ。
 しかも、養母は母の妹(叔母〉である。見も知らぬ他人の養女になったわけではない。彼女は養父母のもとで、何不足なく、幸福に、あの戦中・戦後の激動期を育てられた。「年譜」にも、

 一九四九年[昭和二四年]六歳

 香川大学香川師範学校高松附属小学校入学、講談社の世界名作童話全集を、ほぼ全巻買ってもらい、小学校三年のころまで、グリム、アンデルセン、アラビアンナイトなどを耽読する。

 と記されている。
 そのあと、彼女は養父の転勤にしたがって、高崎(七歳)、仙台(一〇歳)、函館 (二二歳)、上田(一四歳〉と全国を転々とする。
 推測だが、おそらく彼女は、一九五八年、一五歳にして上田市立第一中学校を卒業する頃まで、自分が養女であることを知らなかったのではないか。同年、日本女子大学附属高校入学に際して養父母からそのことをうちあけられたか、あるいは入学書類の中にその記述を見出すかして、自分が養女であることを知ったのかもしれない。

《子どもの頃は、日本中を、転々として暮らし、三つの小学校と三つの中学へ通ったのでした。どこへ行っても、よそものの転校生として、ものめずらしくながめられ、やっと慣れてお友達ができると、又引越しという具合でした。その上、私は、なかなか他人になじめない子供でしたから、みんなが、にぎやかに遊んでいるのをすみっこに、ぽつんとつっ立って、ながめていたものです。》

 後年、三六歳のころ、「少女のころ」 (「海賊」五三号・一九七九年一月)という文章の中で、彼女はしみじみと述べている。
 確かに、一面でこうした環境は彼女の内向的な性格を育てたかもしれない。しかし、敗戦の直後から、朝鮮戦争をへて昭和三〇年代に至る混乱の時代を、東京や大阪のような大都会を避けて、地方で暮らし得たということは、一面では仕あわせなことだったといえよう。まして、一人娘として大切に育てられたであろうことは、年譜にもあるように、幼年期、「世界名作童話全集を、ほぼ全巻」買って貰って愛読したという一事をもってしても、充分おしはかることができる。
 だが、こうした内向的な性格の少女が、もし、もっとも多感な一五歳の頃に、自分が養女であったことを知ったとしたら、その小さな胸の中にかなりの衝撃を受けたのではないか、と思える。
 母が叔母であり、伯母が母であり、従姉妹と思っていた人たちが姉であったという事実。
 しかも、精神的にも物質的にも豊かに育てられ、何一つ不足のない境遇にあって、内心に芽生える実母憧憬の思いを口にし得ぬ、内向的な少女の心の中の複雑な葛藤が、やがては童話創作の筆をとらせるに至るのではなかったか、と私は推測する。
 幕末、慶応三年(一八六七年)の一月、夏目金之助(漱石)は、江戸牛込馬場下の名主、小兵衛直忠の五男三女の末子として生まれた。物情騒然たる激動のこの時代、前途に不安をもった直忠は、生後まもない金之助を里子に出した。貰われた先は、道具屋を営む貧しい夫婦であったらしい。
 七、八年の後、養父母の離婚によって生家につれ戻されているが、この一事は漱石の心の中に大きな傷痕として長く残りつづけた。だが、結果としてこのことは、明治の文豪、といわれる大作家、夏目漱石を生むことになる。彼をして、東大教授への至近の道を捨ててまで創作の筆をとらせた心の底には何があったのか。
 「坊ちゃん」における実母に対するかのような「お清」への思い。あるいは晦渋な「莚露行」における捜・登世(と思われる人物)への秘められた憧憬。これらのことについては、江藤淳の労作『漱石とその時代』に詳しい。
 近くは新美南吉もそうだ。彼は幼くして実母と死別し、継母のもとに育つ。異母弟が生まれたことによる心の葛藤。多くの研究者たちによれば、南吉は決して継子いじめのような、差別的な境遇で育ったわけではないようだ。むしろ、継母のほうが気を遣って、南吉に接していた。
 貧しい畳職人の家にありながら、南吉は東京外国語大学にまで進み、異母弟は高等小学校を卒えてすぐに父親のあとを継いでいる。
 それにもかかわらず、おそらく内向的な性格であった南吉の心には、ボタンのかけ違いのような、家族との通いあわぬ心のくすぶりがあったようだ。それが、一七歳にして彼の代表作といわれる「ごんぎつね」を書かしめることになったと考えられる。

 3.ユングの元型と安房直子の無意識

 二〇世紀の初頭、オーストリアの精神科医で精神分析の創始者であったS・フロイトは、人の心の奥には「無意識」の領域があることを発見した。さらにその後、C・ユングは、その「無意識」には「個人的無意識」と「普遍的無意識」という二つの領域があることを主張した。また、この「普遍的無意識」には人類に共通した「元型」(アーキタイプ)が存在する、とした。
 もとより私は、心理学者でもないし、精神分析学者でもない。まったくの素人である。しかし、秋山さと子や、河合隼雄に、一般向きに書かれたわかりやすい著書があって、ある程度、ユングの主張をかいまみることができる。
 それらの本から得た私なりの理解によれば、作家が作品を創造する場合、自らはまったく意識することなく、しかし作品は「個人的無意識」に支配されて、あるいは導かれて書かれてしまう、ということがあり得るのだと思う。
 河合隼雄は、ある治験者の創作を例にあげて、「創作をした本人はその作品の意味について気づいていないことが多い。
 彼らはともかく内的要請に従って創作する、というよりは、「創らされた」と言いたいほどの状態になり、わけが解らずに表現をする。」(『昔話の深層』)とのべている。
 新美南吉の「ごんぎつね」の場合が、まさにそのようなものだったと思える。
 一七歳の南吉に、人と人との善意のすれ違いを書いてみよう、という主題意識があったとは思えない。あったのは、子どものためのおもしろい物語を書いてみよう、それを「赤い鳥」という雑誌に投稿してみよう、という少年らしい思いだけだったのではないか。
 だが、孝行息子の兵十や病気で寝たきりの母親、いたずらもののごんぎつねなどの物語設定をしていくうちに、ふだんは抑圧して無意識の中に追いやっていたものが、それこそ無意識のうちに表面に出てきて、「ごんぎつね」という作品に仕上がっていったのではなかったか。
 彼が心の奥の無意識の中に抑圧していたものこそ、母を失って、継母に育てられたという境遇にあって、しかも自分がその中で貧しい暮らしながら優遇されているという思いから、口に出すことのできない、家族間のさまざまな心の行き違いであっただろう。
 この、南吉のもっていた個人的無意識によって織り上げられた一枚の布が、多くの読者の胸の中に存在する普遍的な無意識に結びついて共感を得、「名作」への道を歩むことになったのだと思える。
 安房直子の場合も、そうだったはずである。一五歳、高校入学の前後に、自分が養女であることを知ったと仮定して、ことのよしあしは別ながら、とにかくそのことは少女の胸にかなりの衝撃を与えたにちがいない。
 おそらく彼女の心の奥底には、せつない思い、あるいは淋しいような思いが、永く残ることになっただろう。
 しかし、何一つ不足のない、ゆたかな環境に育てられた現実を思えば、彼女はその思いを抑圧してしまわねばならなかった。そして心の奥の「無意識」の中に閉じこめてしまったのである。
 大学に入って、掲示板に「目白児童文学」の原稿募集を見出して、彼女は童話を書きはじめる。幼いときからグリム、アンデルセンを耽読し、小中学生の頃から「大人になったらきっと、お話をつくる人になりたい」(前記「童話と私」)と望んでいた思いが、機会を得て溢れ出すのである。師、山室静との出会い。そして、励まし。
 そうして書きはじめた童話の多くに、彼女の心の奥に秘められていた「無意識」が、それこそ無意識に姿を現わして物語を紡ぎはじめる。
 生まれながらに目の見えない女の子 (「空色のゆりいす」)鮭なにも知らされていない女の子。
 「たったひとりなんだもの、ぼく」と眩く月の輪ぐまの少年。(「北風のわすれたハンカチ」〉臆いいしれぬ心のうちの孤独感。
 おさな友達の三太郎とすずなの別れ、そしてサンショウの木の立ち枯れ。風になって遠くへ行ってしまう、さんしょっ子のイメージ。(「さんしょっ子」〉昌別れの哀感。
 若者が子ぎつねの染物屋に染めてもらった指の窓からのぞきみる遠い日のわが家の縁先。母親の声。死んでしまった妹の笑い声。(「きつねの窓」)"あり得べかりし世界への思い。

《想像上のイメージとよく遊ぶ子どもは、内向的といえるかもしれない。彼らのファンタジーは、どこか神話や物語と似ていて、これらのファンタジーの源泉が、実はユングのいう心の深奥にある集合無意識から生まれた元型的なイメージであることがよくある。》(秋山さと子『ユングの性格分析』)

という記述が、ある程度、安房直子の童話を説明しているかもしれない。
 懸命に童話の創作にうちこみながら、おそらく彼女は、自分の書く童話の底にこうした共通の孤独感、あるいは哀切な思いが流れていることに気がついていなかったのかもしれない。さきにあげた「童話と私」「少女のころ」「誰のために」などのエッセイにも、そうしたことはまったくふれられていない。

《「無意識について驚くべきことは、それが本当に無意識的だということだ」とユングもいうように、それは自分の心の動きの中に見え隠れしていながら、それについてはまったく意識できず、当人にとって未知の世界であり、おそらく人類そのものにとっても、心の中に無限に広がる未知の宇宙といえるようなものなのである。」》

と秋山さと子はさらにのべている。(秋山さと子・前掲書〉
 当人にとってはまったくの無意識ではあるが、童話を書くことは、彼女の心の奥にある「意識」と「無意識」のバランスを保つためのある種の補償ではなかったかとも思える。「意識」の領域がひろがって「無意識」の領域が小さくなりすぎても、またその逆でも、人の心のバランスは崩れる。
《この無意識の領域は、ただ未知の形の見えない姿というだけではなくて、人間の意識を補償的に支えているようなところがあり、ユングはそこに、夢や空想がもたらすものの意味を考えていた。》(秋山さと子・前掲書)
 彼女は、抑圧して、「無意識」のかたすみに閉じこめていたものを、童話を書くことで、まったく無意識に、徐々に解放していたのである。それが健康人として心のバランスを保つことだったのではないか。

 4.「天の鹿」をめぐって

 大学を卒業して、結婚(一九六八年)、童話作家としての出発(一九七〇年)、出産(一九七四年)、というふうにその後の彼女の人生は展開していく。こうした航路の途上で、彼女が「無意識」の中に閉じこめていて、作品の中に無意識に紡ぎだしていた、淋しさ、孤独感、別れの思い、などが徐々に徐々に姿を変えていったように思われる。
 彼女が中編童話「天の鹿」を月刊誌「母の友」に連載しはじめるのは一九七八年一〇月からである。このとき三五歳。翌年の三月には完結し、九月、福音館書店から刊行された。
 鹿撃ちの名人、清十さんは、山で、ものをしゃべるふしぎな牡鹿に出会い、その背に乗って鹿の国の市につれられていく。帰る途中、鹿は背に乗った清十さんに問いかける。
「むかあし、鹿のキモを食べたのは、あんたの三人の娘のうちの、どれだね」
 たしかに、三人の娘のうちのだれかが病気をしたときに、しとめたばかりの牡鹿のキモを、あぶって食べさせたことがあったのだ。しかし、清十さんは、もう憶えていない。鹿はたとえようもなくさびしげな姿をみせながら、谷の方へ去っていく。
 そのあと牡鹿はつぎつぎと、上の娘たえと、中の娘あやをその背に乗せて鹿の市に連れて行く。一年の後、上二人の娘は、それぞれの相手のところへ、しあわせそうに嫁いでいく。
 残った末娘のみゆきは、父親にいう。
「わたしの相手なら、もうきまってる。もう長いこと、くらやみの谷で、たったひとりで泣いている人がいて、その人のところへ、わたしは行こうと思う。わたしは、その人を、明るいところへいっしょにつれて行ってあげるんだ。わたしは、小さいときから、そんなふうに思っていた……どうしても、そんな気がしてならなかった……」
 そんなみゆきのところへ、あの牡鹿が現われ、鹿の市につれていく。市のそばの松の枝には、清十さんがこしらえた袋がぶら下がっていて、中にはまだ少し山ぶどうのお酒が残っている。
 みゆきは、その袋をとってきて、
「あんたが、先に飲むといいよ。あんたはあんなに走ったから、わたしよりずうっと、のどがかわいていると思う」
 鹿は大きな目をふっとうるませて、
「あんたは、わたしの気持が、よくわかるんだねえ」という。
「わたしは、ずっとまえから、あんたを知ってたみたいな気がするもの」(略〉
「これでやっと、わたしも天の鹿の仲間になれるんだ」
「どうして?」
「わたしのキモを食べた娘に、やっと会えたからさ。そうして、その娘が、わたしにゃさしくしてくれたからさ。山ぶどうのお酒を、半分ずついっしょに飲んで、道づれになってくれたからさ。だからわたしは、長い長いさすらいから救われて、たった今、天の鹿になれたんだ」

《ああ、やっぱりそうだったと、みゆきは思いました。わたしが長いこと待っていた人、わたしのおむこさんになる人は、この鹿だったのだ》

 みゆきと牡鹿は、大きな金の梨を分けあって食べ、きのこの雑炊も半分ずつ食べる。そしてさいごにみゆきは、白い桔梗を一束買う。花束を両手にだいて、疲れはてたみゆきは眠りに入る。牡鹿も同じように、みゆきの横にすわり、たおれこむようにみゆきのひざの上に頭を落す。
 さいごの一節が美しい。
《はなれ山の頂からおどろくほどたくさんの雲が、いっせいにわきあがるのを見たのです。その雲は、みんな、鹿のかたちをしていました。何十頭もの鹿が、ひとかたまりになって、ゆっくりと、空を走って行くように見えました。
「おう」
 思わず、清十さんは、両手をあげました。鹿の群れの中に、ひとりの娘のかたちを見たからです。娘は、牡鹿の背に乗っているように見えました。そして、のぼりはじめた太陽を、はれやかにあおいでいるようにも見えました。が、その姿はたちまち、一頭の白い牝鹿のかたちにかわり、やがて、ほかのたくさんの鹿のかげにかくれて見えなくなりました。
「おう、おう」
 清十さんは、わけのわからない声をはりあげてかけだしました。両手をひろげ、流れて行く白い雲を追って、山の道を、どこまでもどこまでも走って行きました。》

 何というふしぎな幻想世界であることか。この作品を読み返して、ああ、安房さんはこの頃、ある種の心の安らぎを得るに至っていたのではないかと思った。
 結婚、出産、そして子育てという歩みの中で、安房直子には、人間の営みの中にはそういうこともあり得るのだ、という思いが深まっていたのではないか。諦念ではない。自己の運命を、彼女の心が肯定しはじめたのだ。
 そしてこの頃、彼女の心の奥底には、不安と孤独感が影をひそめ、現実肯定の安らぎが訪れはじめていたのである。

5.『花豆の煮えるまで』に見る大いなる心の安らぎ

 それからさらに、ほぼ十五年の径庭をへて、遺作になった中編『花豆の煮えるまで−小夜の物語』を彼女が書きはじめるのは、一九九一年から九二年にかけて、四八歳から四九歳のときである。復刊された第二期「海賊」創刊号(一九九一年四月)、同二号(同年二一月)、「目白児童文学」二八号・同年二一月)、「海賊」第二期四号・九二年一〇月〉と断続して連載されている。一九八六年に書いた「小夜と鬼の子」(「目白児童文学」二三号〉と書き下ろしの二編「紅葉の頃」「大きな朴の木」を加えて単行本として出版されたのは、没後旬日のことで、一九九三年三月だった。
 『天の鹿』以後、『花豆の煮えるまで』にいたる歳月の中で、彼女は自立した童話作家として、年々、もとめに応じてたくさんの童話を書いている。その多くが、彼女自身も書いているように《「自分のために」というひとりよがりの旗をおろし》、読者を意識し、読者をたのしませようとして書かれている。
 このことは、彼女の胸の中にある「無意識」の深層の不安、孤独、が徐々に徐々に姿を消していく経過を物語ってもいるだろう。
 『花豆の煮えるまで』を書きはじめる頃、あるいは彼女はおのれのいのちの果てを予感していたのかもしれない。
 この作品は、いきなり、

《小夜には、お母さんがありません。小夜が生まれて、ほんのすこしで、お母さんは、里へ帰ってしまったのです。里というのは、お母さんの生まれたところで、そこは、山をいくつもこえた梅の花のきれいな村だということです。けれどもだれもー小夜のお父さんですら、そこをたずねることは、できないのでした。》

と書き出されている。小夜は山奥の温泉宿、宝温泉の一人娘である。お父さんの三吉と、お父さんの母親であるおばあさんの三人で暮らしている。
 三吉は、ふしぎな運命にみちびかれて、人の行けない山奥に住んでいるという山んばの娘と一緒になる。そうして小夜が生まれる。しかし、三年の後、小夜のお母さんはふっと家を出たまま帰ってこない。山の風になって、山んばのところへ行ってしまったのだと、小夜はおばあさんから聞かされる。小夜は、せっかく結婚したのに、どうしてまたべつべつになってしまったのだろうかと思う。
 小夜は、それでも、ときに風になって、お母さんを探しにいく。しかし、会うことはできない。宝温泉での平穏な暮らしがつづく。
 このふしぎな物語を一冊にするに当って、安房直子は連載の他に、さらに二話を書き加えている。その一つが、最終章の第六話「大きな朴の木」である。
 ある日、宝温泉に北浦のおばさん、という人が泊りにくる。その人は、もうちゃんと小夜の名前を知っていて、「お近づきのしるしに」といって、いくつものばらの刺繍の入った幅の広い青いビロードのリボンをくれる。小夜は、小さいときからリボンが好きだった。いままでに集めたいろいろなリボンを、大切にしていた。
 その人が、宝温泉のいちばん奥のいちばんいい部屋に一泊して帰ったあと、小夜はふっと考える。もしかしたら、あのひとは、わたしの新しい母さんになるんじゃないだろうか、と。そして、小夜の胸にふしぎな悲しみがわいてくる。「風になった母さんを、よびもどすことって、できないかなあ……。山んばに会って、たのんでみても、だめかなあ……。」小夜の心はあやしくゆれ動く。
 しばらくして、小夜は、小さいときから友だちだった、大きな朴の木のところに行く。小夜は、「朴の木さん、朴の木さん。そこから、山んばの里が見えるー ?ねえ、見えるー?」と問いかけ、するするとのぼってゆく。そこから見える遠い山に向かって、小夜は大きな声で「おーい、山んばー。」と呼びかける。すると、姿を現わした朴の木の精が、山んばをここに呼んでやるから、あんたが持っている中で、いちばんいいリボンをおくれ、という。
 小夜はその夜、机の上に青いビロードのリボンをそっとひろげて考えこむ。みればみるほど、みごとなリボンである。
 どうしても、小夜は、この青いビロードのリボンを手ばなす気にはなれない。結局、小夜は、この青いリボンを残して、いままで自分が大切にためてきた、たくさんのリボンを朴の木の精にあげようと決める。
 いく日かすぎた夕暮れ、小夜はリボンの箱をかかえて朴の木のところに行く。
 しかし、朴の木の精はなんにも言わない。
 小夜が、約束を破っていちばんいいリボンを持ってこなかったことを見破ってしまったのだ。
 家にかけ戻って、小夜が台所の戸を開けると、はなやかな笑い声があふれていた。北浦のおばさんがきていたのだ。おばさんは、おばあさんと一緒に、まっ白いかっぽう着を着て、台所仕事に立ちまわっていた。

《小夜は、自分の部屋にもどって、そっと窓をあけました。そして、遠い空を見あげて、
「山んば、ごめんね。」
と、小さい声でつぶやきました。》

というところで、この物語は終わる。
 小夜はついに、山んばのところへ行くことなく、心の中の葛藤をのりこえて、新しいお母さんを受け入れるのである。
 この物語には、四九歳にして到り得た、安房直子の心底からの、大いなる心の安らぎが描かれているように私には思える。
 命つきる日を前にして、安房直子は物語の中に、安心立命の思いを託したのであったろう。
 さいごに、蛇足ながら一言つけ加えておく。もとより、読者の文芸作品への接しかたは、個々にまったく自由である。
 作者の思いをこえて、身につまされて読むこともあるだろう。とくに、安房直子が作品を発表しはじめる一九六〇年代の後半には、読み手の側にもまだ、あの戦争の記憶が色濃く残っていた時代でもあった。安房作品を、ふたたび戻ることのない人々への挽歌として読みとる読者も多かったのではないか、と思う。
 「如是我読」ー。本稿は、かくの如く我は読む、という一つの例であり、その報告にすぎない。
 安房さんはもう世にいないが、二一世紀の読者にも、彼女の作品がなお読まれつづけることを祈らずにはいられない。

(*本稿は、当日の講話用に頂戴した原稿を、小西氏の了解を得て、一部割愛させて頂いたものです。また、参考文献リストも省略させて頂きました。)

 
白樺のテーブルトーク
安房さん、心に寄り添うともだち
 ある日、学校一のワルといわれている中学3年の少年が、「安房直子って知ってる?オレ、鳥っていう話読んだことある。あれ、いいよね」と話かけてきました。彼は小6の時に、姉の中学の教科書にのっていたのを読んだ、といいました。
 学校でたびたびキレて、こんど問題を起こしたら少年鑑別所に……と言われている少年が、優しい顔つきで、ごく普通に童話の話をしていることが、とても驚くできごとでした。少年との話は、それで終わってしまったのでしたが、それは、安房さんの作品が持つ、やわらかいそれでいて強い力、を実感したひとときでした。
 ワルと言われている少年が、安房さんの作品をいいね、と言った。私はそのギャップにとらわれて、安房さんの作品という、彼の孤独さへの入り口を、開けずに素通りしてしまったことが、悔やまれます。
 安房さんの作品は、悲しい気持ちにそっと寄り添い、待っていてくれる大切なともだちのようだと思います。そして、その後に、立ち上がるための強さを、自分に思い出させてくれるのです。不安や孤独に深く触れることのできる、安房さんの作品が持つ力を、もっと子どもたちに伝えたいと願います。

(k)

 
いいメール  (読者からのお便り:ありがとうございました)
▼「花豆通信」第二号届きました。花豆ライブラリーA「川のほとり」感激いたしました。未発表の作品でしたので、とびつくように読ませていただきました。日常のさりげないできごと、しかも、ふだん私も考えているようなことが、安房先生の手にかかったら、どうしてあんな、ふっくらとした作品になるのでしょうか。安房先生の創作に対する姿勢の厳しさ、真摯さに、あらためてうたれました。(T.Y.さん)

▼先日、NHK「クローズアップ現代」で、子供の読書離れを食い止めようとの取り組みをしている学校、図書館の紹介をしているのを見ました。某小学校では、荒れていた図書室が改善されたということでした。「花豆の会」も安房さんをなつかしむというのでなく(そうだといっているのでは、ゆめゆめありません)、広く発展することを願っています。安房直子のメルヘンは、いやしの文学だ、とこのごろ思います。(M.H.さん)

▼「花豆通信」第二号ありがとうございました。読んだことのなかった「川のほとり」、大感激で読みました。通信の内容を読むたびに、生前に一度でも御会いして、お声をきいてみたかったと思います。(中略)一度会に出席して、大好きな紅茶をいただきながら、安房さんの作品世界にひたってみたいなあと思わずにはいられません。(中略)安房直子さんの作品世界のすばらしさがわかる自分を誇りに思い、生きてゆきます。書いてゆきます。(Y.T.さん)

▼じつは花豆という豆にもあこがれていて、安房さんのまねして煮たいと思ってたら、現物をいただき、煮るのが惜しくて、びんにいれて眺めています。大つぶの宝石みたいです。(作家 K.I.さん)

▼作品の永遠性と共に作家の永遠性もあらためて感じます。(編集者 M.I.さん)

▼最近、インターネットを通じて私と同じような安房直子さんファンと知り合いました。たまにメールで、いろいろな作品についてお話ししています。(Y.H.さん)

▼女のあかちゃんがうまれた方に「やさしいたんぽぽ」をプレゼントすることにしていますが、昨年は、六冊になりました。女の子が多いのでしょうか。お母さんたちが、とても喜んでくださるのが、印象的です。(A.M.さん)

▼みなさんの安房さんの作品を愛する熱気が伝わってきて、出席できないのが残念です。この会がこれからも永続きすることを願ってやみません。(編集者 G.H.さん)

▼花豆の会がいつまでも、静かに美しく充実してゆくことをお祈りしています。(元大学長 S.A.さん)

▼土曜日は、だいたい仕事がありまして出席できません。日曜日とかにしていただけるとうれしいのですが、如何でしょう。(H.A.さん)

▼一年に一回のこの日をとても楽しみにしています。生前を知っている方々のお話がきけて、作品しか知らない私にとっては、貴重なじかんです。なのに今回は、名古屋で「三日月村の黒猫」の公演があり、残念ながら欠席させて頂きます。(N.A.さん)

▼安房文学がいつまでもキラキラ輝いていますように。(作家 S.M.さん)

▼とても大きな世界と小さな日常の世界にあるものを、ひょいとつなげて見せてくれた人が居なくなって、さびしいですね。(画家 M.T.さん)


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